読書感想文「ヒトミ先生の保健室」あるいは近況報告 Tweet

 
フランツ・カフカ「変身」の話をしましょう。
ある朝、グレゴール・ザムザが気がかりな夢から目ざめたとき、自分がベッドの上で一匹の巨大な毒虫に変ってしまっているのに気づいた。※印象的な語り口で始まる短編について、ひとまず知っておく必要があります。青空文庫
 私は確かこの作品を、中学校を卒業した直後、高校に入る直前の春休みの期間に読んでいた気がします。「今読みたい本シリーズ」から選びぬかれたこの短編は、15歳の自分の心をひどく不快にしたことを覚えています。
 「変身」
  変身。なぜか惹かれてやまないものの一つでした。徹頭徹尾フィクションの世界。私は現実味がなければないほど惹かれました。メタモンになりたい、そんな気持ちを持つことも少なくありませんでした。
  この文章は学術的な裏付けを一切取らずに、気持ち悪い自分語りを踏まえながら己の欲望に向き合い、勢いと、僅かなメッセージ性を乗せ、「ヒトミ先生の保健室」がいかに自分にとって読みたかった作品なのかが津々浦々と書かれ世に放たれた怪文書になります。気をつけてください。
  よく来たな。俺は逆噴射総一朗だ。おれは毎日大量の文章を書いているが、誰にも見せるつもりはない。だが昨晩目に入ったパルプ・コミック「ヒトミ先生の保健室」がいかに「ちょっとえっちな日常的コミック」から外れ、タンブル・ウィードのように当てもなくさまようおれたちに必要な作品であるか・・・そして、願わくば、この優しい作品が、より多くの人に届けられ・・・作者と宇宙を・・・より良くなることを祈っています。
  前置きが長すぎだ。「ヒトミ先生の保健室」はKindleで買える。ちょうど今安くなっているらしいが、おまえはそれ以上のことを知る必要がない。俺はおまえにこの漫画を買わせるために生きているからだ。
  こういう話だ「養護教諭のヒトミ先生は、変化する生徒や人々の悩みをカウンセリングし、受け入れ、認め合う学園生活コミック」ここにフランツ・カフカ「変身」を取り入れた、当然生まれるべくして生まれてきた革命的な作品だ。俺にはそう見える。
  そもそもカフカ「変身」は、捩れる第二次性徴がモチーフとなっている作品であることが誰の目にも明らかだ。人間には(ここでいう「人間」とは、すべての「人間」が該当する。性差や社会性の度合いは等しく内包されている)人生のある一定の時期に「変身」を強要される(あるいは試みる)。
  強要された人間(私もそちら側だ)は、程度の差はあれ必ず恐怖を伴って「変身」は訪れる。それは第二次性徴や、誰かの第二次性徴に誘発される。さらに、「変身」は時に死をもたらす。直接的な死、直接的でない死(自己との決別を、どうして死と表現しないのか?)、苦しみ、嫉妬、その他大勢。
  「変身」は、時に柑橘として描かれる。太陽のように明るく、ビタミンCのように健康にいい。グレゴール・ザムザ=「変身を強要させられた人間」は、太陽の光を拒絶する。深い井戸に追いやられ、そこでたくさんのザムザの死体を見る。   問題は、その巨大な毒虫が人間であるという点のみに絞られる。井戸の底にうごめく毒虫を、白昼のもとに引きずりあげる試みは、有史以来成功例が極めて限られている。そうして太極図が生まれる。
  ザムザの部屋の外から謳われる太陽の讃歌を誰が聞くのだろう?

   前置きが長過ぎだ。
  つまり「ヒトミ先生の保健室」は、グレゴール・ザムザを、健全な社会=自己肯定感の世界 へ誘うことが可能な、極めて類稀なコミックである。
  「グワーッ性癖の闇鍋!」多くの人間がこの作品を読み、感じる。しかもエロすぎる。9割エロ本である。
  しかし性癖やエロ本であるというくだりをこの場で議論する必要はない。なぜならば、それは適切な流通のプロセスを踏むものにのみ許されるからである。
  加えて説明すると、極めてページの見応えがある。どうやらコミック版「ニンジャスレイヤー」に影響を受けた作風か、全編を通してオノマトペやコマ割りが、異様とも取れるほど拘っている。私はこのこだわりが大好きだ。
  主旨はこの作品が「醜い自分(自分たち)を受け入れること」これだけでは足りない「醜い自分たちを受け入れ続けること」この前提が、1話から完全に徹底されていることである。
  これを現実の世界で実践するとなると極めて長い時間を要することになる。私を担当した主治医は言った「思春期うつを治すには、最低でも5年かかる」。
  「フィクションの形を取ったカウンセリング」ティーンエイジを対象にした創作のほとんどすべてがこれに該当する。
  それらを一つづつ取り上げていき、全て拒絶していきたい。でも我慢する。

   前置きが長すぎだ。
  登場人物は皆、第二次性徴-もとい様々な変化を伴う心身の歪み-に困惑する。物語は概ね1話完結で、彼らは様々なイベントを経験し、自己肯定感を高めていく。
  ここで大切なのが「自己肯定感を高める」という終わり方であり、「解決」ではないという点である。
  カウンセリング・フィクションのほとんどが「解決」を模索する。しかし「変身」は不可逆的なものであり、一度醜いと感じた姿は解決しても醜いままである。その事実はザムザを餓死させることになる。
  serial experiments lainにおいてすらこの罠に囚われている。柊子は敗北し、私達は長い間井戸に閉じ込められる、極めて幸福な物語であった。
  しかし残念ながら毒虫は人間である。私が死ぬと二度とモルカーを見ることができない。ニンテンドーダイレクトもだ。やっていきかたを、模索するしかない。

   前置きが長すぎだ。
  醜さが醜さのまま…それは断じて違う。醜さなど最初から存在しないのである。
「ヒトミ先生の保健室」、おすすめです。一度読んでみてください。言いたいことは伝わっただろうか。
 世界が優しくなりますように。